「心をほどいて」

朝礼で事業部長が話し始めた。
「風間くんは今年で勤続30年です。最長連続10日間のリフレッシュ休暇の対象になります。皆さん、風間くんが休みをとった時はそのフォローを温かい気持ちでお願いします。」

事業部長の話が終わると同時に部署内の皆の視線が私に集まり、拍手が沸き起こった。
「ありがとうございます。休みの間はご迷惑掛けますが、宜しくお願いします。」朝から清々しい気分で席に着いた。

私の名前は風間咲子、今年で53歳になる。会社に勤めてすぐに同期だった旦那と社内結婚をした。仕事が好きだったので結婚した後も同じ会社で働き続けた。八年後に娘を出産、産休明けも職場に復帰した。働きながらの子育てはしんどい時もあったが、母だけでない顔があると言うのは息抜きでもあった。

「風間さん、長い休みはどこに行くんですか？いいなぁ、羨ましい」部下の内田君が話しかけてきた。
「内田君も後10年でもらえるじゃない、楽しみにがんばんなきゃね！」答えながら、頭の中はどこに行こうか想像が止まらなかった。

数日後、久しぶりに京都の大学に通っている娘の沙恵から電話が掛かってきた。沙恵は「お母さん10日間も休みが取れるの!?　そしたら、京都においでよ。私も数日なら大学休めるから、二人で旅行にも行こうよ！」
と誘ってくれた。沙恵の大学の休みに合わせて有給をとり、京都周辺を二人で旅行をすることに決めた。娘と二人の旅行は初めてなので嬉しくて心が躍った。

京都に到着して最初の2日間は一人で京都を観光した。平日でも京都は外国人の観光客で賑わっていた。京都を満喫した翌日、沙恵と一緒にレンタカーを借りて滋賀へ向かった。これから数日かけて滋賀をあちこち巡る予定だ。

滋賀観光4日目の午前中は琵琶湖を巡る冬季限定の「南湖遊覧ボート」に乗り、湖を巡ることにした。冬季は船の便数は少ないが運航している。船からは360度のパノラマで、琵琶湖の雄大な景色を一望できる。比叡山、比良山などの山々は美しく雪化粧していた。白い可愛い鳥はシベリアから飛来する冬の渡り鳥のユリカモメだそうだ。愛らしい姿にも癒された。

船上からの絶景を満喫した後、日が傾き始めた頃に満月寺の浮御堂へ向かった。

満月寺は平安時代に湖上の安全を願い湖中に建立されたと言うお寺だ。夕方になり空が徐々に紫、ピンク、オレンジ、黄色と変わり、夕焼けが空を染めていく。湖に浮かぶ浮御堂は黒いシルエットとなり、湖には鏡のように映し出されたお堂が湖面をキラキラ瞬き別世界のような情景を作りだした。あまりの美しさに息を呑んだ。

「今まで頑張ってきて良かったな…こんな美しい景色を見れたんだもの。」と言うと。
「お母さん、勤続３０年なんてすごいね、今までありがとう。でも、これからは仕事も良いけど、自分だけのことを考えて健康で楽しく過ごしてよ。でさ、また一緒に旅行も行こうよ。」と沙恵は私の背中に触れながら優しい声で話した。

浮御堂の絶景と沙恵の温かな言葉があわさって、ふっと肩の力が抜けた。私は働くことが好きだった。子育てとの両立が大変で辛かった時もあるが30年頑張ってきて良かったと思っている。

もしかしたら娘には寂しい思いをさせてしまったかもしれない。でも、沙恵は目標に向かって進める意志の強い子に育ち、思春期にはケンカもしたが今は私のことを労ってくれる優しい子に育った。今まで頑なに持ち続けていた「頑張る」という重い荷物を今日ここでやっと下ろせた気がした。

一瞬でも心が揺さぶられる情景や言葉に出会うと、体全体がその感動を受け止める。そして、心を前へ動かしてくれる。出会う感動の一つ一つは一期一会。それらは私の心にこれからも残り続けるだろう。